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骨董屋の主人、江戸に七福神ブームを呼ぶ! 隅田川七福神(東京都) |
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むかしむかし、江戸は文化年間の頃(1804〜18)、あるところに骨董屋の主人がおりました。ある日、「私の持っている福禄寿のフィギュアは非常にレアなので、ひとつこいつを中心にして七福神をつくろう」と思い立ちました。とまぁ、ひらたくいえば、これが隅田川七福神のはじまりである。 このご主人、佐原鞠塢(さはら・きくう)とおっしゃるのだが、3000坪の敷地に四季折々の草木を植えた、向島百花園と称する庭園をもっていて、仲間の文化人たちとともに風流を愛でて楽しんでおられたようである。そんな文化人たちと周辺の寺社を7つに再編してつくったものが、隅田川七福神。場所柄、江戸市中からの日帰りレジャーにちょうどよく、たちまち参拝客であふれて評判になったという。いまでも山手、谷中とともに江戸三大七福神としてガイドブックに名を留めている。 |
いつ来てもごったがえしている浅草駅から東武線の各駅停車に乗り、4つめの鐘ヶ淵駅で降りる。まずは歩いて10分ほどの多聞寺へ。駅前に出ると“↑多聞寺”と道路に矢印が書かれている。あんまり道を尋ねられるので近所の人が書いたのか駅の人の親切か、チョークで道路に、というところが素朴で且つわかりやすくていい。「多聞寺」は毘沙門天を祀っているが、一説に、天正年間(1573〜91)に現在地に移転し、本尊を不動明王から毘沙門天に乗り換えたのだそうだ。うちの近所でもダイエーがイトーヨーカ堂になったり、村さ来が養老になったりしているから、まぁ寺社でもよくあることなんだろう(?)。はっきりとわかっている創建は1606(慶長11)年。1716(享保元)年に造られた茅葺きの山門と狸塚が見どころ。 |
山門は、そのまま何の気なしにくぐり抜けてしまいそうな門だが、関東大震災も東京大空襲も、また江戸で何度も起きた大火事をも乗り越えてきたわけで、そう思ってみるとどことなく品格と威厳が漂う。狸塚とは、この寺を創建するときに住処を追われた狸夫婦が、寺に悪さをしたので毘沙門天に成敗されたというもの。時の住職が狸を哀れに思って塚をつくったとのことだが、いまの感覚なら毘沙門天に抗議の投書が殺到することだろう。狸の置物のお供えがいっぱい。 |
多聞寺から隅田川に沿って「白鬚神社」へ。川沿いとはいえ、隅田川にはお目にかかれない。まるで壁のような都営団地が建ち並んでいるからだ。壁のようなといったが、実はまさに「壁」そのもの。この都営白鬚東住宅は、またの名を「白鬚地区防災拠点」。町と川を隔てるようにして立ち並び、この壁で住宅密集地からの延焼をくい止めようというわけで、有事の際は全部の窓に防火シャッターが降りて水煙が張られ、河原の避難場所へ炎が来るのを防ぐという仕組みだ。うわさには聞いていたが、まるで万里の長城だ。その防災団地が切れると、もう少しで白鬚神社。佐原さんたちが、七福神を組む際、寿老人にちなんだ寺社がどうしても足りなかった。そこで、白鬚神社を見つけだし、白鬚というからには白いひげの老人の神様だろうとこじつけて、ここを寿老人のパートとして七福完成、としたという。“江戸人らしい機智を働かせ…”と案内板は誉めたたえているが、まあご愛嬌。ここの祭神は本当は猿田彦命なのだが。 |
そして福禄寿のある「向島百花園」。先に述べたようないわれから、この神様だけ「植物園」におられる。園のかたすみに祠が立てられ、あのレアものの陶器製の福禄寿が飾られている。普通、庭園というと、東京の場合、前身が大名屋敷であることがほとんどだが、ここは佐原さんが造ったもの。つまり民間経営の庭園だったのだ。見る人が見れば、庶民的で文人趣味豊かな造りで、ほかの大名庭園とは違うというのがわかるのだとか。その民営の歴史は永く、徳川幕府が瓦解したあとも営々と続き、実に1938(昭和13)年まで存続したという(現在は東京都の管理)。 |
高速道路の下を歩きながら、次なる弁財天の「長命寺」、布袋尊の「弘福寺」を訪ねる。弘福寺は明治の書に“木造の布袋尊は安政の大地震で壊れいまは徳川五代将軍から賜った掛け軸が代わりにある”と書かれているらしいが、お堂のなかでは、布袋が本尊よりも大きな顔をして、いるぞ。本尊よりも目だっている。普段は熱心な檀家以外に近所の子どもが遊びに来るぐらいしかない、多くの寺社にとって、七福神とはまさに福の神なのだろう。これにエントリーされるかされないかは、結構大問題なのだ。現にここも、この布袋をお目当てに参拝客で賑わっている。はとバスもひんぱんに出入りする。 最後は恵比寿と大黒天を祀る「三囲神社」。畑の中から出たご本尊のまわりを白狐が3回まわった、という伝承があるがそのせいか、寺の裏手の鳥居の足が3本だった。といっても、真ん中に1本にょきっとはえているのではなく、3本、足を立てて三角形のかたちに鳥居を組んだものだ。 さて、これでめでたく七福をまわったことになる。あとは言問橋を渡って浅草に戻る。 |
七福神は昭和50年代に一大ブームになっている。各地で休業していた七福がふたたび再編されてめぐられだしたり、あらたにメンバーを組み替えてつくられたりした。オイルショック以後の不況で神仏詣でが復興したのか、ディスカバージャパンに触発されて地元の文化を見直そうという動きだったのか。そんな一大ブームでつくられた七福神のなかには、観光ホテルがつくりあげたものもある。浅間温泉のウエストンホテルによる信州七福神、鬼怒川第一ホテルによる下野七福神、伊東観光協会による伊東七福神などだ。オフシーズンに、温泉と七福ということで、ご老人の観光客を呼び込もうという商魂が感じられるが、まあおいておこう。自在に再編して遊ぶのが七福神詣での本来のスタイルなのだから。隅田川だって骨董屋さんだし。この観光ホテルなかから第二、第三の佐原鞠塢がでてくるだろうか。 |
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